なぜ書くのだろう?
なぜ読むのだろう?
なぜ考えるのだろう?
自分の思いを発信して、ひとの考えを受信する。そこには共感があり、誰かの「I」を自分の「I」に置き換えるから〜といのが私の場合だった。
この動きが最近できなくなってきている。
何回か書いてみたが、年齢によるもの、いろいろあって、感じるパワー、エネルギーがなくなっていること、このふたつが大きいのだが、そのモトにあるものが見えてきた。
私は「未来」を諦めている。
書いたり読んだり考えるのはそうすることで、現状からどこかに繋げたかった。
それがなくなっている。
この世からいなくなりたいと思っていた諦めではなく、望んでも、いつか突然「死」はやってくる。この行為は無駄ではないかと考えるようになっている。
ハンドメイドも途中になるかもしれない。
そう考えると、作ろうとして資材まで用意してもそこからが動けない。
自分が思っている以上に同い年の友人の死とおっとの心停止が効いている。
おっとの心停止は一瞬だったし、何が起こったのかわからないうちに入院したので、実感がわかなかったが、その原因が友人の死因と同じと実感してからは、どういうことだったのかじわじわ思い起こされる。
あの時、突然倒れたおっと。
痛みもなくすーっと意識がなくなったそうだ。
もし、適切な処置がされていなかったら、今のおっとはいなかった。
一年前の脳梗塞。
夜中におかしくなり、朝一番でかかりつけに行き、そのまま専門病院に搬送。これも息子の友人(研修医)の言葉によると処置が早かったそうで、早く歩けない、距離も2キロくらいまでしか歩けない、走れない(心臓にICDも埋め込まれている)ということを考えても、少し左足のバランスは取りにくいらしいが、杖なしで電車で通勤している状態にまでなったとはいえ、突然の出来事。
何をしても、突然起こる。
起こる時は起こる。
そして、どうにもできない。
息子の不登校もそうだった。
未来は突然変わってしまう。
考えても、何をしても、自分でなんとかできることには限界がある。
そんな当たり前のことを還暦すぎてやっと気づく、人生の進み方が人よりゆっくりの自分。
とはいうものの。
自分は何をしたいんだろうと思う自分がいる。
ひとに共感されなくてもいい。
ひとに共感もしなくていい。
こんな自分、今は誰とも接点を作ってはだめだ、
とはいうものの。
そんな自分を変えたくて、SOSを発信している自分。
いつもならSOSはまずおっとが受信してくれるのだが、今回の歪みのモトに自分(おっと)が関わっていることに気づかせるわけにはいかない。
ふたり、SOSに気づいてくれた。
声をあげないと、伝わらない、か。
でも。声をあげる相手も探してしまうのだ。
伝えてもいいひとかどうか。
私には伝えられるひとが、伝えてもいいひとがいるか。
勇気を出して発信したら受信してくれたふたり。
死ぬ時はひとりだし、と思っていたら、友人の死には多くの同僚が弔問にきていた。誰からも慕われていた彼女。
私にはそんなひとはいない。
いろいろな思いが整理されることなく、頭の中で湧き上がる。
いつ、「整う」のだろうか。
書いてから時間が経っての追記。
亡くなることを恐れていたら何もできない。
彼女の死で私がダメージを受けていることは、亡くなった彼女は望んでいない。
おっとの身体を思ってのことも同じこと。
彼は私のために長生きしようとしている。大好きな嗜好品はすばっとやめた。
まだ時間はかかる。
でも、必ず復活する。
エネルギッシュな私に。