息子が同じクラスの女の子と結婚する、と言い出した。そのことを幼稚園のママ仲間にしたところ、「XXちゃん、かわいいもんね」という言葉が返ってきた。その女の子は、かわいくておとなしくて、他にも好きだという男のら子が多いらしい。
かわいい子が好き、か...
若い頃は、いつも容姿にコンプレックスを持っていた。今では少しは目立たなくなった、167センチ。小中学校は、男子の人数が女子の人数よりも少なかったので、背の高い女子はイベントがあると、男子の代わりをしたり、背の順でも男子の後ろに付かされて、いつも余るのは自分だ、といつのまにか「余る」ことが当たり前になっていた。そして、かわいくない顔。でかくてブスは好きな男の子に告白しても自分は絶対ふられると信じていた。と書くと、好きな男の子がいたような書き方だが、実際のところ、高校からはいろいろな理由が重なり、「男嫌い」で通してきた。こうなると、強気にますます磨きがかかり、クラスメイトの前で、ある男子に暴言を吐き、彼のプライドを粉々にするということまでやってのけ、ますます「かわいくない女」道を勢いよく突き進んでいた。
あの頃、男の子と歩いている女の子はどの子もかわいい子-身長も、顔も-ばかりに見えた。背が高い子はカッコいいとか、きれいとか、そういう人だった。背が高くて余るということを、自分が悪いから、かわいくないから、余らなくちゃだめなんだ、にすり替えていた。自分だけガマンしたらいいんだ。だって、男の人は背も顔も性格もかわいい「女の子」が好きなんだから。
容姿コンプレックスを忘れていくことができたのは、社会人になってからだった。いい同僚-同期、先輩、後輩に巡り会えたからだ。もう余らなくてもいいんだ。そう思うことができるようになっていた。
しばらくして、スペインに出かけていった私は、オリンピック時、縁あってあるスポーツ新聞の現地コーディネーターのアシスタントをすることになった。男性記者の方ばかりに、女性は私を入れて3人。そのうちの1人は、N賞作家のH氏だった。日本にいた時、私はどうしても彼女の作品を読む気になれなかった。というのも、作品を読むと昔の自分を思い出すような気がして、暗くなりそうだったからだ。しかし、コンプレックスも忘れかけたと思ったので、作品を読んでみた。昔を思い出して、こんな高校時代だったなあ、と自分の体験を過去のものにして、自分は変わったような気がしていた。
ある日、皆で食事に出かけようということになった。しかし、誰かが残らないと連絡がとれなくなり、困るという時だった。
「私が残ります」
とっさに出た一言だった。私が余ればいいんだし。そうしたら、みんなが食事に行けるし。
他の方がみんなで行こう、連絡がとれなくてもなんとかなると言ってくれた。「でも、困るじゃないですか、残ります」
そんな時だった。H氏が一言、
「いじけっこ」
本当は、私はみんなと一緒に行きたかった。空腹だったせいもあるが、一人で残るのは、本当はイヤだった。でも、私が残ったらいいんじゃないか?
私は何も変わっていなかった。
そんな私の気持ちをほんの短いやりとりで察することができたH氏の観察眼に驚いた。作家とはかくあるべきなのか? 彼女はその後も精力的に活動を続けていて、ほんの2週間余りだったが、一緒に過ごした時間があったことは、今ではもう夢の中のことのようで、私の中には強烈な印象だけが残った。
本当は、昔から余りたくなかった。たまには真ん中の身長を余らせてください、そう言うことができたらよかった。ふられるというのも勝手に容姿のせいにしていたが、いじけていた、自分の性格にこそ問題があったことに気づいたのはごく最近のことだ。若い頃は、やはり容姿が一番のポイントなのかもしれない。
さて、気まぐれな息子、いつまで彼女と結婚したい、と言うのだろう。もちろん、彼女は、かわいいだけではなくて、性格もいい子なのかもしれない。彼が将来、選ぶ女性はどんな人だろう、なんて意地悪く思うのである。
(2001.11.28-Yumingの「フォーカス」を聞きながら)