切り離して考えたいとは思うけど、「作品」と「作品を生み出したひとのしたこと」または「生み出したひと」は切り離すことはできないなと思う。
それを考えているうちに、最近の自分の中のもやもやがはっきりしてきた。
ぼんやりとしていた。はっちり認めるのが怖かった。
私は、作品や考え、言葉に共感して、刺激をもらい、影響を受け、自分自身も考えることができていたのであって、そのひとは「作品」とは別にしなくてはならなかったのだろう。勝手に私が近づいていってしまった。会う約束が果たせなくなると、これは神様が会うなと言っているんだと思うことが何度か。
それは正しかった。
私は「推し」ている存在だけなのだ。
それも私からだけの、一方的な矢印。
それが証拠に、約束が果たせなくなってからの「次」は私から動かない限りなかった。それもずっと果たせないまま。
つまり、認めたくない自分がいるが、自分は相手にはどうってことない存在。
推しに必要な距離感を忘れてしまっていた。
「ひと」と「もの」との間にある距離感。ひととひととの距離感。どちらも本当にうまくとれない。
少し前まで感じることや考えることができなくなっていたのだが、ぼちぼちハンドメイドを作れるようになった頃、ようやく何かを感じることができるようになってきた。
そして、至ったところが「距離感」。
そこに気付いたところで次のステップはわからないのだが。
さて、作者にスキャンダルなどがあった場合、作品には偏見をもって接してしまうのは無理もない。私もそうなりつつある。
距離がおかしいかもと、ぼんやり感じ始めてからは、リアクションが一切とれなくなっていた。
ひとと作品とを切り離せなかった証だ。
私は作品に惹かれたのだ。
そして、作者にも惹かれた。
それだけの、一方通行の話。
思い込んでしまった自分が悪い。
そうなって、行き着いたところ。
リアクションしたところで、何になるんだろう。
推していると思う気持ちも迷惑なのでは。
いや、私のリアクションなんてそもそも残っていないだろう。
何も反応できなくなるようにもなれないし、決別したいわけでもない。やはり、書くものや言葉、考えは好きだから。
そんなことを考えつつ、純粋に「推し」の存在を楽しんでいる会場にきている。
負けても推すさ。好きだもの。
続き 勝ちました。