2021年7月13日 12:41
生きていくというのは「線」だと思っている。
まっすぐではなく、くねくねと曲がり、時には戻りぐるぐるし、少しずつ進んでいる。
曲線になった時、ほかの線と接する。しかし、接するのは、つながるのは一瞬の点。点として何回か出会う時もあれは、一回きりの時もある。
学生時代の同級生、部活仲間、職場の同僚とは、共有した時間の時だけつながりは線になっている。線の関係からのいじめは線のいじめ、点のいじめは相手を刺す。
線は共有時間が終われば終わる。思い出という形でまた戻ることもあるが、離れて終わることがほとんどだ。
点がずっと線になっている関係がある。
私にとっては伴侶との関係であり家族との関係。
共有する時間や体験を考えると、その状況ではないひとと線であることは難しいのだが、私は家族以外にも線であることを求めてしまっていた。
誰かに言葉や思いを発して、相手がネガティブな方向にいっているような気がした時は、いつも相手に申し訳なかった、迷惑をかけてしまったと思っていた。
でも。
家族でないのなら、点なのだ。相手にとって、この点は点ですらないのかもしれない。
点であるのなら、私が相手に迷惑をかけていると考えることはおこがましい。
自分の言葉、存在がひとさまに影響を与えるほど大きなものだと考えることこそ自分は何様だ、相手をばかにしている。
もちろん、点の大きさによっては大きな点もあるわけで、だからこそ、「私は」いろいろな影響を受けてきたのだからとも思う。
「いつ」「どこで」「だれと」「なんで」つながったのか。一つでもズレたらつながらないし、小さな点はほんとに一瞬。
つながることは奇跡で、つながり続けることは奇跡の連続であり、エネルギーを要するのだ。新しい点に出会うためのエネルギーはもうない。
相手にこの点に気づいてもらうのにはエネルギーがいる。もうそのエネルギーが残っていない。
身辺整理をしよう。
つかんだものを削ぎ落としていこう。
これ以上の点は必要ないのかもしれない。