2019年8月15日 12:35
単なる覚え書きを綴る。
夕飯の食卓に焼きそばがあった。
そこから、中学の時のお弁当の話になり。
お弁当の4/5が焼きそばのお弁当が好きだったこと、土曜日は給食がなかったから、みんなで体育館でお弁当を食べたのが楽しかった話に。
突然、お弁当の時のできごとが蘇ってきた。
ハンバーグが好きだった私に、おかずにハンバーグが入っていた時、必ずくれた友だちがいたこと。
会社に入ってからも、私の好きなおかずがお弁当に入っていたら、くれた先輩がいたこと。
大学の時、飲みにいくと必ず魚の骨をとってくれた友だちが何人かいたこと。
会社に入って、食事に行った時、蟹をむいてくれた先輩、後輩がいたこと。
結婚してからはおっとがそれをしてくれること。りんごの皮むき、好きなおかず、いろいろ…
つまるところ、私がなさけないから、みんながやってくれていたのだが、考えようによっては、私はそこでは周りにすごく甘えていた。
そのかわり、私は肉親に、大人に甘えることができない子供だった。
小学校入学まで両親と別居、育ててくれた祖父母には預かりものだからか、大切にはしてくれたが、どこか遠かった。同居してからも父は勤務先が遠かったのと部活指導で起きる前に出かけ、寝てから帰ってきたし、週末もいなかった。母は私たち姉妹を育ててもらったからだろうか、実の両親に遠慮、私たち子供より目線は常に自分の両親へ。
父は中一で亡くなったので、私の中では父親の存在はほぼない。
母親に対しては毒親だと認識できた時点でもはや産んだだけの存在。父亡き後も自称、常に男の人が寄ってきたという、私が最も軽蔑する類の女になっていた。
さらには、私が子供を産んだ時、「ざまあみろ」「これで、子育ての苦労がわかるだろう」と、実の娘に言った女。
私は自分の母親に愛されてこなかったことを悟ってしまった。
そして、この女は教員。
こんなのがひとを教育できたのか?
家には居場所がなかった。
私の居場所は学校であり、友だちと過ごしているところだった。
家では常に大人の目線を気にしてばかりで、ずっと、大人には甘えてもいい、頼ってもいいということを知らなかったのだ。
初めて就職して、先輩たちに指導されながらも時には甘えさせてもらい、その後、スペインに行き、見知らぬ人に助けられ、甘えて、甘えられて、頼って、頼られて、ひととのつながりで生きていくんだと実感できた。
肉親ではない他人とのつながりが私を救ってくれた。
おっとという究極の他人は私を受け入れてくれていたし、今でも受け入れてくれている。
しかし。
息子の一件で人間関係を断捨離、今や話をするのはおっとと子どもだけという生活。
そこに、また、母が新しい男の話をしてきた。
本来の自分はひとと会いたくて会いたくてしょうがないのに、断捨離してしまった。
ただでさえ無理をしているところ、心のストッパーが外れてしまった。
この先、自分はどこに向かうのだろう。
何をしても、どこにいても、あの人から生まれたという汚れた血が私には流れている。
生理的な問題で、離れても変えようがない。
私が自己肯定感をもてなかったのは「母からの扱い」が理由だ。
自己肯定をすると、私が一番嫌いなあの人と繋がる。
他人といると、自己肯定感を感じることができたような気がする。
傷ついてもいい、他人に寄っていくか。
まだそれもできない。
今の私はどんな言葉も入ってこない。
言葉のキャッチボールができないから、殻に閉じこもるのが一番。誰にも迷惑をかけないように。
こっそりいなくなりたい。
これだけか。