2021年10月8日 06:20
言葉は受け取ったひとのものである。
これは、私が言葉について考える時のベースにあるものだが、この文章をまじまじと見つめたら、ぼんやりと見えてきたものがある。
受け取ったということは、それを投げた(与えた)もの、ひとがいること。
大前提は、自分ではないもの、ひとがあっての言葉なのだ。
さらにまじまじと見つめたところ、もっと見えてきたものがある。
言葉は行動を伴うものということ。
言葉はそのひとのものなのだから、ひとの言葉に違和感があってしかるべし。しかし、共感することが多い言葉には違和感がそれほどない。言葉に対する温度差みたいなものがある時に違和感があるのかもしれない。
私にとっての違和感は、言葉の内容ではなく、言葉そのものに対する姿勢だったが、言葉と行動がどのようにつながっているかに違和感を感じるのかもしれない。
ネットの世界の文章(会ったことのないひととのやりとり)には実際に行動しているのかわからないことが多いので、文章や言葉から判断してつながっていくしかない。相手が本当のことを言っているかさえ危ういのだが、文章から感じたことだけからで「その人」を判断する。まあ、言葉は受け取ったひとのものだから、その流れ。
たとえば、望んでもいない、勝手に教えてくる文章には疲れてくるし、吐くだけの文章は嫌いで圧しか感じられなく、ぞわっとする。
吐くと呟くとは違う。
このひとは、ネット以外でもこんなだろうかと想像してみる。
私にとって言葉は、伝えるために必要なもので、文章、対話では、吐き出すのではなく、伝えるのではなく、伝え合いたいものなので、一方的な圧を感じると、この考えは合わないな、と思う。
一方的ではないつながりを求めている自分に気づく。
ひととつながらなければいいと思ったことは何度もあったが、つながることで、新しく何かが生まれることのわくわくに気づくことができたから、閉じた世界には戻りたくない。
そのつながりのために、言葉を意識したい。
自由に、時には窮屈に。
そうすれと、自ずと行動も決まってくる。
いや、行動ありきの言葉でもある。
言葉ありきの行動か?
ゆっくり考えよう。
最後に、時々疑念を持つSNS 、特にTwitterについて、自分の使い方がぶれるから、今の気持ちをまとめておこう。
Twitterは呟くもの。
自分のツイートに共感してもらえても、正直、ふ〜んという感じ。リプライは突然の贈り物(あるいは凶器)。ネットスラングに違和感を感じることも多いけれど、言葉が生きていることを感じるという楽しみ方をしている。