「聞く」「聞かれる」を意識した。
「話す」は「聞かれる」ことで「話す」が成立するのだ。
相手ありきの行動、いや言動。
人もものも思いも考えも自分ではないひとやところで意識、認識されて「ある」「いる」になる。
「ない」が「ある」。
なんか、ここ、ひっかかった。
時々、考えてみよう。
自分は強く存在を意識している相手に自分を否定されたら心は折れる。自分の存在はないのだから。
そこから進めた息子は、本当にすごい。
少しそれるが、「無知の知」。わからないこと、わからなかったということがわかる。昔、息子が「数学のここがわからないというのがわかった」と言った時、この子の数学は大丈夫と思ったのも思い出した。(これが適用されたのは中学まで)息子は中2で不登校になったので、中2で習う分野はほぽ独学で問題を自分のやり方で解いていた。それを塾の先生が「合っているんだけど、もっと効率のいいやり方がある」とおっしゃった後の言葉。
そうではないことを意識できた時の強さ。
さて、別のこと。
「言葉は受け取ったひとのもの」という、私にとっては光のような存在のひとの言葉が常に頭の中にある。
他の人が受け取って、あるいは受けとめて、言葉はまた別のものに、そのひとの何かになる。
受信は発信があってこそ。
発信できるライターさんはすごい。(なんちゃってwebライターは除く)
読んでいるうちに思考が飛んで、「言語学」に行き着いた。
言葉。
言葉なんだ。私が求めているものは。
表面の言い方、語彙にばかり目がいくと、その奥に届かず、本質を見逃す。
朝から頭がフル回転している。
思考があちこちに飛ぶのはいつものこと。
こういう刺激がなくっちゃね。
凪の時間はしばらくないかもしれない。
私にも何もない時間があることがわかったから、それでよし。